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2015.11.30 Monday

福島原発事故に対する物理学者の責任を問う 山田耕作

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    2015年11月

    福島原発事故に対する物理学者の責任を問う

    2015年6月
    山田 耕作


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    福島原発事故に対する物理学者の責任を問う(pdf,24ページ,511KB)


     目次
    1節 私の3.11福島原発事故前後の対応
       1.福島原発事故まで 
       2.突然の大震災と福島原発事故
    2節 物理学者の社会的責任
    3節 人格権は何事にも優先して護られるべきである
    4節 科学は何のために必要なのか
    5節 福島原発事故に対する責任を認めない日本物理学会
    6節 おわりに

    参考資料1 会誌掲載論考「福島原発事故研究の要望に対する理事会の回答に思う」
    参考資料2 会誌掲載拒否論考「福島原発事故で放出された放射性微粒子の危険性」
    参考資料3 参考資料2の掲載拒否までの経緯
    追記1 弱いものを締め出す社会は弱くてもろい社会である

    1節 はじめに−私の3.11福島原発事故前後の対応

    1.福島原発事故まで
     私は2006年に京都大学を定年退職した。1961年に大阪大学の物理学科に入学して以来、45年間物理学を専門としてきた。その退職の際、最も強く思ったことは、学生を不幸にしたり、社会に迷惑をかけることなしにどうにか無事定年を迎えたという安堵の気持ちであった。ただ、原発や環境ホルモンなど科学技術のもたらした危険性に対していっそう不安になり、最終講義でそのことをお話し、理学の使命は、諸科学を総合して、このような人類的な課題に答えることにあることを訴えた。この最終講義は物性研究の「講義ノート」に2回に分けて掲載されている。(物性研究 (2005), 84(5): 703-710、URL http://hdl.handle.net/2433/110263)(物性研究 (2005), 85(1):1-19,URL http://hdl.handle.net/2433/110360
     この最終講義で述べたように、私が在職中、職業としての理論物理学における研究・教育と同時に、社会における科学者の果たすべき社会的責任の問題が気がかりであった。
     物理学会では、「物理学者の社会的責任」という特別の分科の世話人を川野真治氏や澤田昭二氏と務めてきた。佐藤一男氏、近藤駿介氏、久米三四郎氏、高木仁三郎氏、槌田敦氏を学会に呼んで、シンポジウムを開き、原発問題を議論してきた。このころは学会の正式分科として「物理学者の社会的責任」は扱われ、学会のプログラム会議にも出席した。
     日本物理学会誌にも原発は「阪神・淡路地震」にも耐えうるという井上進一氏の原発の耐震設計の解説に対する批判を談話室の欄に投稿した。耐震設計の基礎である大崎順彦氏の方法の欠陥を指摘した(日本物理学会誌51、1996年、359ページ)。
     京大では井村総長の時代から少人数ゼミと称して、全学から新入生を10人ずつ研究室に呼んでゼミを行うことが制度化された。これは新入の学生に研究の先端に触れさせ学習意欲を高めるためのものであった。私は1999年から2005年まで「社会における自然科学」というテーマでこのゼミを開講し、原発問題や環境問題を議論してきた。最初の年、学生の意欲は高く、ティア・コルボーンらの「奪われし未来」を読んだ。中西準子氏の「環境ホルモンから騒ぎ」を批判する小冊子をゼミで作り、中西氏へも送付した。
     このような原発や環境ホルモンはいずれ被害が顕在化し、徐々に人々はその危険性を理解するだろうと考えてきた。定年後まもなく、世界大恐慌の時代となり、飢餓と貧困を救う経済学を勉強したいと思い、資本論を読み始めた。

    2.突然の大震災と福島原発事故
     その最中の2011年3月11日、マグニチュード9の大地震と大津波を受け、福島原発が炉心溶融を伴う破局的事故となった。すでにこれまで、女川、志賀、柏崎と耐震設計を超える地震動が現実に観測され、原発の耐震性が破綻していた。耐震設計のもとになっていた大崎の方法に正当性がないことが誰の眼にも明らかになり、耐震設計審査指針の改定が2006年に行われたばかりであった。スマトラ地震や貞観地震などから、津波の心配も出されていた。この一連の地震からの警告も無視して、電力各社、政府、原子力安全・保安院は原発の運転を認め、運転を継続してきたのである。今回の原発震災は、明らかな原発の耐震性の欠如を無視して、地震動の過小評価を用いて安全性を捏造してきた原発推進派の犯罪といってもよい過失の結果である。これはまぎれもなく人災である。
     福島原発事故は私にとって一生の中で最大の衝撃であった。事故の直後の3月20日ごろ、大阪で原発事故についての講演を頼まれたが途中で涙が出て困った。原発は危険だとは言ってきたが本当に起こるという現実感がこれまでなく、私自身原発を甘く見ていたのである。いざ、福島原発事故の被害を心配する多くの市民を前にすると、真っ先に、物理学者はなぜこのような危険な原発を造ってしまったのか。これから起こる被害の大きさを考えると責任の重さに耐えられない気がして声が出なかった。
     現実に福島原発事故のような過酷事故が起こってみると、私の原発事故に対する危険性の規模や現実性・緊急性に対する認識が甘く不十分であったことが明らかであった。この事故で私のささやかな物理学での研究成果も吹き飛び、私が人々に与えたものは負の効果の方が大きいと思った。私の一生は事故とともに無に帰したのである。むしろ物理学者全体としての責任を考えると大きなマイナスである。物理学者が原子力の平和利用を認めなければ福島原発事故はなかったのである。人々は、事故で故郷を追われ、健康や生命を失うことはなかったのである。被害の大きさが底なしの大きさで、長期にわたって、福島はじめ世界を襲うと思うといたたまれない気がした。定年退職後、のんびり経済学を勉強したいと思ったのは福島事故5年前であった。まさに原発に危険が迫っていたのであり、全力で原発の停止に没頭すべき時期であったのである。このころ、耐震設計の欠陥が明らかになり、一方、ウランの資源としての枯渇からいずれ縮小に向かうと考えていた。おそらく大事故がない内に原発廃棄になるだろう。我々は警告を続ければよい。油断があったのである。人は体力の衰えとともに、自分で楽な方向をとり、言い訳をして正当化するようになりがちである。しかし、現実は情け容赦なく襲い掛かるものである。
     さらに私の予想と全く違ったのは物理学者はじめ科学者の事故後の態度であった。この大事故を前にして、安全神話を信じた科学者は後悔し、謝罪し、原発は放棄するするだろうと思っていた。驚いたことは謝罪どころか、被害を否定し、原発の再稼働さえ容認しようとしていることである。正常な判断とは思われない。これは信じがたいことである。さらに田崎晴明氏や菊池誠氏など中堅の物理学者が公平な第三者のような顔をして、放射線被曝を過小に評価し、被曝被害を拡大する危険性にも平然としていることである。これは大変なことであり、福島や東北・関東の子供や妊婦が心配である。物理学者が自分で犯した犯罪による被害を過小に評価し、被害はほとんどないと被害者に言い聞かせている行為である。後述するように、日本物理学会誌で被曝被害の危険性を物理学会員に訴えようにも「風評被害」を煽るとして掲載を拒否される。せめて阪大金森研の同窓会メールで友人たちに広めようとするとメール管理者から通常でさえメールが多いのに迷惑だと使用禁止が宣告される。ことは人命や人権に関わることである。
     雑誌「物性研究」も私の田崎氏の著書(田崎晴明著「やっかいな放射線と向きあっていくための基礎知識」朝日出版社、2012年)批判に対しては不当な取扱いであった。以前中西準子氏のリスク論を批判した原稿を投稿した。その原稿を中西氏に編集部から送付し、反論等を期待したが応答はなかった。その結果、この事実を付して私の投稿のみが掲載された。ところが今回は田崎氏が反論しないという理由で掲載されなかったのである。反論しないのは田崎氏の自由であるが、批判した私の論考は掲載して読者の議論に付すのが当然であろう。なぜなら私は田崎氏の著書の被曝被害の過小評価や、その危険性を放置することは物理学者の責任として許されないことを読者に訴えていたからである。
     ところが、私の投稿が掲載されなかったことを逆利用して、菊池誠氏は私の田崎批判が「掲載拒否」された論文として間違いや不当性があるかのように宣伝している。菊池氏も物性研究で反論できる立場にあるのであるから,具体的内容で反論すべきである。菊池氏は小峰公子氏との共著「いちから聞きたい放射線のほんとう」(筑摩書房、2014年)の中で、「妊娠中に被曝すると、子供が何かの障害を持って生まれるかどうかだけど、原爆の被爆者の調査でわかっていて、妊娠中に100ミリシーベルト以上被曝しなければ、リスクは上がらない。がんのリスクと違って、低い線量ではリスクは上がらないんだ。」と154ページに書いている。さらに「数値から見ると今回の原発事故に限っては心配ないと」「そう言い切っていいよ」155ページ。ところが、現実に自然死産率は事故から9か月過ぎた2011年12月、福島近県の4県で12.9%増加し、11県で死産率と生後1年以内の乳児死亡率と合わせたものが5.2%増加した(2014年2月6日発行ドイツの放射線防護専門誌「放射線テレックス(Strahlentelex)」650-651号に掲載された論文:Folgen von Fukushima, Totgeburten und Säuglingssterblichkeit in Japan:ふくもとまさお氏訳: http://yahoo.jp/box/fQknBG または http://www.strahlentelex.de/strahlentelex022014_kiji_JP_fukumoto.pdf からダウンロードできる。)この論文の著者たちは「以上の解析結果は、チェルノブイリ原発事故後にヨーロッパで観察できたように、日本でも放射線被曝による遺伝子障害の影響が発生していることを示唆している。この解析結果からすると、今後日本において自然死産と乳児死亡、先天異常、出生時の出生性比の動向を注意深く観察する必要がある。」と記している。.
     このような死産や乳児死亡の増加は放射線の影響で胎児の正常な発育が損傷された結果と考えられる。これまで広島・長崎や他の調査で明らかにされている小児がんの増加なども含め総合的に検討すべきであり、現在放射線医学総合研究所も慎重な姿勢をとっている。菊池氏らの本の帯に「中学校の教科書に」と書かれているがそれでよいのだろうか。
     なぜ、みんなこのような重大事を正々堂々と公表し、議論しないのか。個人や物理学者だけの問題ではなく、社会に対する科学者の責任の問題である。

    2節 物理学者の社会的責任
     前回「原発問題の争点」(緑風出版、2012年)において、原子核物理学者をはじめ専門家の立場から、原子力の平和利用を推進してきた物理学者の原発事故に対する責任について議論した。学術会議をはじめ科学者たちは核の軍事利用には反対してきたが、平和利用の推進には積極的に協力してきた。物理学者をはじめとして日本の科学者たちは、核の軍事利用の歯止めとして、同時に平和利用の自主開発を目指して、平和利用三原則「自主、民主.公開」を主張した。中曽根康弘氏などの自民党と社会党は共同提案で、平和利用三原則を掲げた原子力基本法を1955年に制定させた。これは結果的には、当時のアイゼンハワー米大統領の、核実験反対などの核の軍事利用に反対する国際世論をそらせ、沈静化させるための宣伝政策「平和のための原子力(Atoms for Peace)」(1953年国連演説)に協力する役割を果たした。こうして、我が国の科学者たちは、核の「平和利用」として原子力の自主開発を目指した。しかし、産業界が政界と一体になって海外原発の技術導入によって原子力推進に乗り出してから、「自主・民主・公開」の三原則は政財界の原子力推進に対する外からの条件闘争とならざるを得なかった。そして、科学者としては主導権を産業界・政界に奪われてしまった。こうして科学者は総体としては、平和利用と称する原子力利用に積極的に協力することになった。「自主・民主・公開」の三原則は企業秘密と国家機密のもとにないがしろにされる結果となった。それどころか、原子力に反対するものは科学に反対するものであり、「反科学」とさえ呼ばれた。このように物理学者を中心として科学者は平和利用に積極的に加担し、組み込まれてきたのである。一方、政府・支配層は平和利用を隠れ蓑とし、核燃料サイクルを通じて核武装にも対応できる体制を構築してきた。
     本来、核技術は他の技術と同様に軍事と民事の区別が困難である。このことも平和利用を求める科学者・市民が軽視し、誤った点であった。
     その平和利用の結果、福島原発事故が発生した。それ故、以上の経緯からしても、物理学者に事故の被害に対する加害責任があるのは当然である。主導したとは言わなくても、少なくとも積極的に反対しなかったのは事実である。ここで改めて科学者は原点に返り、原子力の「平和利用」は正しい選択であったかを問わねばならない。私は平和利用として原子力をエネルギー産業とすることは間違いであると考える。
     物理学者を含め科学者が核の「平和利用」において、間違えたことは、第一に原子力の持つ巨大なエネルギーが制御不可能であり、原子力エネルギーの利用は本質的に危険であることであった。第二の重大な誤りは、地震をはじめ天災の危険性とその対策が科学技術的・経済的に不可能に近いことであった。第三に放射線被曝の生命体に対する危険性がすでに明らかであったにもかかわらず、その隠蔽を見抜けず、過小評価したという誤りであった。そしてその危険性が通常運転を通じて日常的に、更に使用済み燃料を通じてほぼ永久に、遠い未来の世代にまで続くことであった。
     原子力発電の危険性に物理学者は気が付かなかったから責任は問えないと考える人もあるかもしれない。しかし、私はこのような言い訳は許されないと思う。内外の物理学者の一部が原子力の危険性を隠蔽して、積極的に協力してきたことは事実であり、それを知らない人はいないであろう。人類にとってこれほど重大な社会問題に傍観者でいることは学者としての責任を放棄するものであり、怠慢であると思う。他にも重要な問題があり、自分は自分の分野で輝かしい成果を生んだからよいではないかと考える人もあろう。しかし、後述するように、人類の平等から由来する民主主義の歴史は、「人類の健康や生命にかかわる人格権は何事にも優先して擁護されなければならない」ことを教えている。高等教育を受け、またそれを後の世代に伝える教育を担う学者集団が率先して、人格権や基本的人権を守り発展させなければならない。
     私は科学者としては、特に集団として総合的な判断は科学者としての使命を果たす上で不可欠であると思う。そうでなければ科学の進歩が人類の幸福に生かされる保証がないからである。
     我々科学者は漫然と研究しているわけではない。研究の成果が真理であればいつかは人類の幸福に貢献することを信じ、それを目的に研究しているのである。それ故、科学の成果の利用には常に関心を持ち、厳しく監視することが使命である。それは現在の科学が組織的社会的な作業となり、国民の血税によって支えられていることからも理解できる。老人医療や生活保護など社会福祉のための予算が圧縮されている中で、研究費が支給されているのである。
     現在の資本主義社会においては私企業や産業界の科学技術に対する介入が強まり、研究の援助、寄付講座まで大学にも浸透した。表1に東大と京大の2014年度の主な収入を示した。文部科学省からの運営交付金が削られる一方で、産学連携等研究収入( 国や民間等からの受託研究や共同研究等に係る収入)の割合が高くなっていることがわかる。それぞれの大学の報告では2015年現在、東京大学寄付講座数74講座、京都大学31講座である。
     このように文部科学省からの運営交付金が厳しく削減される中で、電力独占体や企業の様々な補助や資金は科学者の重要な財源の一つとなった。その結果、政府予算の獲得や産学協同と引き換えに、原発反対を保留し、あるいは原子力推進に協力することはなかっただろうか。 いずれにせよ、この平和利用の持つ危険性を明確に警告できなかったことは我が国物理学者の過去、および現在、未来の人類に対する取り返しのつかない過ちであり、物理学者に加害責任が存在することは物事を真摯に考えれば当然のことである。第2次世界大戦において近隣諸国を侵略し、多くの犠牲を負わせることになった。この犠牲に対する謝罪も我が国及び国民の責任の問題としてよく議論される。同じ意味で物理学者の国民に対する加害責任は放置してよいことではない。物理学者の先人たちの犯した過ちは若い世代が引き継ぎ謝罪し、2度と被害を与えることの無いよう誠心誠意努力すべきことなのである。それ故、現在、起こってしまった福島原発事故の被害を最小限に留め、再び原発事故を起こすことのないようにすることは私たち物理学者の最低限の義務である。

    表1 大学の主な収入(平成26年度)両大学のホームページより引用


    3節 人格権は何事にも優先して護られるべきである
     不平等をなくし平等を拡大することによって民主主義は進歩する。人類の歴史において富の蓄積とともに階級が発生し、不平等が発生した。奴隷制社会や封建制社会のもとでの神の前の平等から、近代ブルジョア社会の法の前での平等へと民主主義は進歩してきた。現在まだ拡大しつつ存在する、経済的不平等は民主主義に対する大きな障害となっている。このような民主主義の拡大とともに人類平等の普遍的原理として人格権や基本的人権が確立してきた。
     民主主義に関しては、哲学者森信成氏はその著『唯物論哲学入門』(新泉社、1972年)で次のように述べている(108ページ)。「民主主義は人類共同の利害が目的となっており、人類の平等が原則である。我々すべてのものが生まれながらにして平等であり、自分の良心に従って生きる権利がある。そしてこの権利を表現する自由を持っている。つまり、思想、言論、出版、集会、結社の自由というものは万人が共通に持っている権利である。これらの権利は、人類平等というところから必然的に導きだされてくるものである。自分はこれだけいう権利を持っているがお前はこれだけいう権利を持っていないといったような差別はない。自分が自分の権利を保障されれば、他人にも同じだけのものを認めるということは、人類平等の原則から必然的に出てくるものである。このように人類平等の原則から必然的に出てくる原則が基本的人権であり、民主主義である」。
     全ての人が健康で文化的な生活を送る権利や働く権利を持つ(人格権)。そして人間としての基本的な権利、表現、出版、学問の自由、集会・結社の自由、健康で文化的な生活など基本的人権が保証されるべきことが人類の歴史上の結論として確立してきたのである。
     この人間としての権利は人格権としてすべてに優先して尊重されるべき権利なのである。この観点から、人類の生命、健康を護り発展させることは他のあらゆる活動の利害に優先するのである。例えば国際放射線防護委員会ICRPの「リスク・ベネフィット論」の言う「経済的・社会的利益を考慮した上で合理的に達成できる限り低く」という被曝基準の考え方は企業の経済的利害を人類の生命・健康の上位に置くものであり、人格権を侵害するものである。この正当な判断を大飯原発運転差し止め判決と高浜3,4号機再稼動差し止め仮処分判決は示したのである。この人格権は世界中のすべての人に保障された権利である。私企業や個々人の私的利益活動よりも、人類の一員であるひとりひとりの生命・健康の擁護が優先するのである。この人類の人格権を守ることは被曝の問題でも科学研究の場においても貫徹されなければならない原理・原則である。この点は特に、大飯原発の差し止め判決やアナンド・グローバー氏の国連特別報告にも「健康に生きる権利」を人格権として優先されるべき原則として主張され、広範な支持を得ている。そして差し止め判決では私企業の電力の生産という利益は人格権より低いものであり、原発が住民の健康・生命という人格権を侵害する恐れがある以上運転差し止めは当然としたのである。福井地裁判決は言う。「個人の生命、身体、精神および生活に関する利益は、各人の人格に本質的なものであって、その総体が人格権であるということができる。人格権は憲法上の権利であり、(13条、25条)、また人の生命を基礎とするものであるがゆえに、わが国の法制下においてはこれを超える価値を他に見出すことはできない。」
     これはまた、科学研究といえども人格権の下にあり、研究者である前に人間として、すべての人と同様に、それ以上に、他者の人格権を尊重し、守り発展させる義務があるのである。現在、一般社会において民主主義が蹂躙され、貧富の差が拡大し歴史が逆転している。この中で、大学間の格差が拡大し、外部資金による差別化の下で、科学者は競争で社会的連帯を失い、個人中心主義的になったと思う。
     本論考の最後に人権と全ての人の共生ということに感銘を受けた言葉を追加した。人権ということは社会的弱者とともに生きるということであり、傲慢な勝者の横暴を協力して阻止することである。(追記1参照)

    4節 科学は何のために必要なのか
     科学の発展の初期においては科学が貴族の個人的な趣味として存在した時期もあった。科学が技術と結びつき、産業に貢献するようになってから科学技術は生産力を支える重要な要素となった。科学の進歩は生産技術の進歩として豊かな生活をもたらすはずのものである。生産技術の発達とともに、科学研究は社会的・組織的な労働となった。研究機関は社会的にその研究活動を支えられることになった。研究成果は普遍的であり、人類共通の財産となった。それ故、研究の自由、学問の自由が保障されているのである。ただ、現在社会が、社会的生産手段の私的所有を基礎とする資本主義社会であるために、社会の利益に背くゆがんだ形で科学研究が実現するという制約を持つ。この科学にとって不幸な私的利害からの介入・干渉、制約、私物化という事態は人類の進歩と幸福に反することであり、科学に携わる研究労働者は人類のために尽くすというその社会的責任を片時も忘れてはならない。一方でその科学の破壊力も増大し、ダイナマイトのように生産の進歩にも軍事力の増大にも貢献するものから、ついに科学は核という無限の破壊力を持つに至った。このことは一層科学者の責任を大きくする。
     科学の持つ本来の普遍的な価値のゆえに、物理学者は働く国民の税金である国家予算でその大部分の研究が支えられている。物理学者は、物理に関連する諸問題に対して、的確に判断し、国民の健康、幸福のために学問が利用されるよう行動する義務がある。これが先ほど述べた全ての人が守るべき人格権に基づいているからである。

    5節 福島原発事故に対する責任を認めない日本物理学会
     ところが日本物理学会は福島原発事故直後の2011年6月10日、田中俊一氏、有馬朗人氏、柴田徳思氏などを講師とする「原子力利用とエネルギー問題」というシンポジウムを開き、反省よりも被害の過小評価と再稼動への意志を再構築しようとしたのである。私はこの点に関して「原発問題の争点」第3章で取り上げ、批判した。
     それ以後も日本物理学会は原発事故に対する自己の責任は認めておらず、むしろ物理学会誌上でもオープンな議論を避けているように思われる。大変、遺憾なことである。このような問題点を示す実際の例として、この論考の最後に私の物理学会誌への投稿原稿や会誌編集委員会との議論を資料として再録する。
     まず、日本物理学会は上記の原発推進のシンポジウムを開いた。つづいて物理学会としての責任を認めず、福島原発事故に対する学会としての研究活動を拒否した。私はそれに対する批判を会員の声に投稿した(参考資料1参照)。さらに、私は福島事故での放出放射性物質量に関して、文献調査の結果を会員の声に投稿した。「福島原発事故の放射性物質放出量はチェルノブイリの2倍以上」というものであるが、査読が必要な問題なので掲載できないという編集委員会の回答であった。しかし、本投稿は国際的に権威のある気象学などの掲載論文に基づく総説的考察であり、すでに査読はそれぞれの雑誌でなされているのである。政府やマスコミの福島原発事故はチェルノブイリ原発事故より放出規模が一桁小さいという誤解についてコメントしたものである。会員の感想や意見を述べるべき「会員の声」欄で査読を必要とするという判断も異常なことである。さらに、私が「福島原発事故で放出された放射性微粒子に対する危険性」を会員の声に投稿すると(参考資料2参照)、本来必要のない閲読や「風評被害」を理由に掲載を拒否した(参考資料3参照)。
     まさに福島原発事故の被害を予防原則に基づいて、その危険性を広め、警告し、被害を回避し少なくすることよりも、事故の被害の公開を恐れ、隠蔽しようとする態度である。これは政府や東京電力の責任をあいまいにし、彼らの賠償における立場を有利にし、被害者を切り捨てるものである。
     これは人格権を侵害し、被害者を見捨てるものであるが、同時に物理学会にとっても深刻な事態である。このように、自由闊達な議論が抑圧され、萎縮したような雰囲気の中では、これからの困難な社会的責任を伴う時代をリードする研究者は育たないということである。
     後の資料に示すように、会誌編集委員長はじめ編集委員は話題の枠を狭め、オープンな議論を恐れ、萎縮している。会員諸氏に積極的に訴え、考える機会を与え、活発に討論しようという気迫が全くない。学者に「風評被害」などとまるで過保護な子どもの教育である。このような精神で教育された若者はいわゆる官僚主義的官僚にはふさわしいかもしれないが、我が国や世界の未来を担う科学者や教育者、政治家に育つとは思われない。このことと原発事故が我が国で発生したこととは偶然でないかもしれない。自分で判断し、積極的に行動できる人が少なくなっており、我が国の科学研究や政治に責任を持つ人が少なくなっているからである。高度成長の夢に酔っているうちに、我々は自分で考える判断力を失ったのである。福島原発事故を見て何の教訓も導き出せないとすれば、切り捨てられる事故被害者を見て責任を感じないとすれば、人間として正常な感受性をなくしてしまったのである。残念なことであるが、同時に我が国の未来にとって恐ろしいことである。
     おわりに当たり物理学会が少なくとも基本的人権や民主主義を尊重し、誠実に実践する人たちによって運営されることを期待する。そうでなければ、物理学者は社会から尊敬されず、社会から遊離し、若い研究者が育たず、学問的にも後退し続けるのではないかと危惧する。
     広河隆一氏によればチェルノブイリ事故の時、「ICRPやIAEAと結びついた医学会は、原発のすぐ横のプリピャチ市からの住民の避難に反対した。…しかし、彼らは、チェルノブイリでは思う通りには行かなかった。市民、政府、軍隊、共産党支部、物理学会などの抵抗にあったからである。」(Days Japan2015年7月号27ページ)物理学会は住民の避難に反対するICRPに反対し、住民の避難に協力しているのである。

    6節 おわりに
     以上に述べたように、核の平和利用を含め「核は人類とは共存できない」ものである。核は人類のみならず、地球上のあらゆる生物にとって脅威である。私たちは過去、現在、未来にわたって、人類すべての人に等しく与えられた健康で幸せに生きる権利をすべてに優先して護らなければならない。一切の戦争はこれに反することである。核の平和利用も被曝の被害を避けることができない以上、健康と人命の犠牲なしには不可能である。
     これまで物理学者をはじめ、科学者はこの人類の平等の権利、人格権をあいまいにしてきた。例えば、政府は原発の事故を理由に、被曝の基準を高め、一般人に通常の年間被曝限度1ミリシーベルトより高い20ミリシーベルトまでの被曝を強制して、その健康や生命を犠牲にしてきた。労働者には緊急時被ばく限度を250ミリシーベルトに引き上げようとしている。
     現在さらに、政府は年間被ばく限度20ミリシーベルトの地域に対して、住民の帰還を強制する政策を強化している。「帰還困難区域」を除く「居住制限区域」と「避難指示解除準備区域」の避難指示を解除し、5.5万人にも上る避難者を帰還させようとしている。同時に並行して汚染地からの避難者への援助を期限を定めて廃止し、賠償の打ち切りで脅迫し、汚染地への帰還を強制している。例えば、福島県は県外に避難した県民全てに、災害救助法を適用し、応急仮設住宅を無償で提供してきた。しかし、災害救助法による住宅提供は2年という制限があるため、その後毎年更新手続きが必要であり、避難者は将来が不安でその改善を強く求めていたものである。2015年の今年、その要望を署名を持って各地から要請した直後の6月15日、福島県は国の指示のもとに、逆に応急仮設住宅の供与を2017年3月で打ち切ると発表したのである。そして支援が具体化しているのは福島への帰還の片道の交通費だけという。苦しい生活の中から要請した避難者に対して何と冷たい仕打ちであろうか。
     これは「子ども・被災者支援法」に違反し、人権に対する重大な侵害である。原発を推し進めてきた加害者である政府や東京電力が、本来被害者の救済と賠償を行うべき義務が自らにあるのに、避難区域を勝手に縮小し、避難者の住宅援助を打ち切り、避難者を切り捨てようとしている。「自主避難」というがいずれも年間被曝線量1ミリシーベルト以上の汚染地であり、チェルノブイリ法では避難の権利ゾーンである。それ故、住民が様々な困難の中で子供たちのために避難するのは人権の上で当然のことであり、親の義務である。チェルノブイリ法では年間被ばく線量5ミリシーベルト以上は政府の義務で避難させなければならない地域である。正しくは内部被曝2ミリシーベルトを加えているので外部線量では3ミリシーベルトである。我が国ではこのような汚染地への帰還を強制するという非人道的なことが公然と行われているのである。それを知りながら、物理学者は黙認している。中には「目に見える被害はない」と政府の帰還政策に協力している学者もいる。
     我々物理学者は福島原発事故によって、福島、関東、東北、日本中、世界中に被曝を強制してきた。未来の子供を含めて我々はこのような被曝被害の間接的、直接的加害者である。極端に見えるかもしれないが、被曝によって死産となった子供たちには本来、無限の輝かしい未来があったはずである。このような犠牲者をなくしていくことこそ人類の進歩ではないのか。逆にこのような犠牲のもとに我々は何を得ようとしてきたのか。福島原発事故は「現在が科学のあり方を根本から反省するべき時代である」ことを示していないだろうか。




    参考資料1
    「福島原発事故研究の要望に対する理事会の回答に思う」
                             山田耕作 日本物理学会誌 2014年⒌月号335ページ
    1.はじめに
     会誌2013 年10 月号によれば,槌田敦氏ら14 名は次の要望書を物理学会理事会に提出している.1) その要望書では福島原発事故の「深刻な災害のそもそもの原因は物理学者にある.戦後,一部の日本の物理学者は,安全は科学技術で確保できるとして原子力の平和利用を提起した.そして,多くの物理学者は,自主・民主・公開を条件にこの原子力の研究開発を容認した.しかし,安全の確保に失敗してしまった」として,次の2 項目を理事会に要望している.「①福島原発事故の詳細を研究するグループを結成し,その研究結果を発表する.②物理学会誌を福島原発事故に関する会員の意見交換の場としても活用し,上記研究グループの研究に寄与する」.これに対して理事会は会長名で「個別の問題に関して理事会が主導して研究グループを作るということはせず,研究グループを作る仕事は会員の自発的な活動に任せるというのが物理学会のスタンスです」と回答して実質的に要望を拒否している.1)
    2.理事会回答への疑問
    1) 個別でないテーマなどあり得ない
     理事会のスタンスは「個別」でなく一般の問題なら研究グループを組織しうるというようにも理解される.しかし,真理は常に具体的である.「個別の問題」でない「一般の問題」の研究とはなんであろうか.「研究テーマはいつも具体的であり,個別である」.それ故,理事会回答は一切研究グループを組織しないという「スタンス」になる.しかし,これまで,物理学会として重要な課題は個別にワーキンググループ等で検討してきたのであり,問題はその研究の重要性である.理事会は福島原発事故の研究の必要性を認めなかったとしか理解できない.
    2) 「物理学会のスタンス」は今期の理事会で新たに決めたのか
     これまで例えばオーバードクターの問題や女性研究者の「個別の問題」で理事会や会長が主導して検討グループやワーキンググループが結成された.また,原子力の問題は従来から,物理学会をはじめ学術会議の重要な検討課題であった.物理学会が主導して原発問題を5 回のシンポジウムのテーマとして議論し,その報告を物理学会が1988 年に『原子力発電の諸問題』として出版している.2) 日本物理学会編集の『原子力発電の諸問題』の219 ページのあとがきで編集委員会は次のように述べている.「1981 年頃より日本物理学会委員会において,会員の原子力諸問題に対する理解を深めるとともに率直な意見の交換ができる機会を設ける必要があるという提案をめぐって,数回にわたって熱心な討論が行われた.それをうけて日本物理学会理事会において可能性と具体的方式について検討が重ねられ,最終的には,物理学会の開催期間中に分科講演発表と並列に「原子力シンポジウム」を開催することとなった.原子力シンポジウム企画委員会が組織され,1982 年秋,北海道大学での第1 回原子力シンポジウムを皮切りとして,毎回主題を慎重に選びながら1986 年秋まで計5 回のシンポジウムが行われた.シンポジウムにおいては,原子力の諸問題の現状を賛否双方の立場から対立的に浮き彫りにすることを狙いとし,意見あるいは立場を異にする複数の講師の講演を聴き,その後にシンポジウム参加者から質疑に答えてもらうことにした.原子力シンポジウム企画委員会が企画に責任を持つことは当然であるが,個々の講師の講演内容及び意見については,講師自身が責任を持つべきものとした」.
     このように日本物理学会は理事会が主導してシンポジウムを開き,原子力の問題を議論し,検討し,公に出版している.さらに,物理学会主催で2011 年6 月にはシンポジウム「物理学者から見た原子力利用とエネルギー問題」を田中俊一,有馬朗人,北澤宏一,柴田徳思氏などの講師で開催し,その報告が会誌でなされている.3,4)しかし,今期理事会は要望書の「福島原発事故の詳細の研究」が「個別」のテーマであるから物理学会の「スタンス」に反するというのである.この「スタンス」は,会員間の議論もなく従来の物理学会の方針を変更するものではないか.今期理事会の「スタンス」の根拠は示されていないと思う.
    3.福島原発事故の真の原因を明らかにするために
     理事会は,要望書が提起している原子力の平和利用の容認を「個別の問題」としている.これは物理学会として原発事故に対する責任はないというスタンスに通じる.しかし,我々の先輩たちの大部分は今回の事故につながる原子力の平和利用を提案したり,容認したのである.その人類に対する責任は,故人だけのものだろうか.まして,これまで可能性の問題として議論されてきた原発重大事故が起き,現実に甚大な被害が発生している.事故は終息せず,泥沼であることは誰の目にも明らかである.原発を原子力の平和利用として容認してきた物理学会として,福島原発事故の原因を研究し,それを社会に明らかにする義務と責任があると私は思う.我々物理学者は原発重大事故の心配もせず,研究に埋没していたのではないか.本当はもっと明確に,地震国日本での原発の危険性を,物理学者は総力を挙げて国民に警告すべきではなかったのか.5) 福島原発事故が津波による電源喪失が原因なのか,地震による配管の破断や送電鉄塔の倒壊など機器の損傷が原因なのか.今後の耐震性の議論に不可欠の研究課題である.世界でも有数の地震国日本で耐震性は保証できるのか.メルトダウンした核燃料と地下水とが一体となった汚染水と溶融核燃料は如何に処理すべきなのか.余震で燃料プールや建屋が倒壊する危険もある.物理学会は解決に向けて,他分野の人たちとともに努力すべき責任があると思う.それ故,今回なぜ事故の詳細の研究や検討を組織的に行わないかについて理事会の説明が必要であると思う.「スタンスです」という結論だけでは説明になっていない.
    4.おわりに
     私は過去の経緯を踏まえて,原発の安全はなぜ破綻したのか.安全であるとして原子力を容認ないし推進してきた日本の物理学者のどこが間違っていたのか.これらの疑問の解明なしには原発の再稼働はあり得ないと思う.これはすべての事故に普遍的に通じる鉄則である.原因が明らかでなければ,同じ事故を繰り返さないという保証がないからである.津波が原因でなく地震が原因なら,いくら防潮堤を高くしても無力である.現在から過去のシンポジウムの報告2)を見ると地震や津波の議論もなく極めて未熟な理解であったことなど反省点が多くあることがわかる.広大なアメリカに比べても,震度5 以上の地震数で十倍以上も多い日本で米国の原発をほぼそのまま導入しているなど多くの誤りが見いだせる.
     このように福島原発事故の原因の問題は個々の物理学者だけの問題ではなく,平和利用を提唱し,容認してきた物理学会全体の問題でもある.理事会回答は拒否の理由を説明しない官僚的な回答に感じる.なぜ物理学会理事会はJ-PARC 事故や,原発事故を正面から取り上げないのか.物理学会は少なくとも意見交換の場を提供する立場にあると考える.
    参考文献
    1) 槌田 敦:日本物理学会誌68(2013)693.
    2) 日本物理学会編:『原子力発電の諸問題』(東海大学出版会,1988).
    3) 山田耕作:日本物理学会誌66(2011)790.
    4) 相原博昭,北本俊二:日本物理学会誌66(2011)783.
    5) 山田耕作:日本物理学会誌 51(1996)359.




    参考資料2 
    会誌掲載拒否論考 「福島原発事故で放出された放射性微粒子の危険性」
                                  山田耕作     2015年1月17日投稿
    はじめに
     福島原発事故によって大量の放射性物質が放出された。その放出量も重要な問題であるがその放出形態も被曝被害の予測にとって重要である。最近、球形の放射性微粒子が観測され注目されている。その微粒子はミクロンからナノサイズまで様々な大きさを持ち、水溶性あるいは不溶性の様々な放射性微粒子が放出されている。渡辺、遠藤、山田の3名はその微粒子がもたらす危険性について多くの人たちと議論した1)。私たちは、福島事故による被曝の危険性について学際的な議論を続けている。事故原発からは被曝として極めて危険だとされるホットパーティクルが放出されており、ことは重大である。これまでの検討結果を簡単に紹介し、予防原則からしても、会員諸氏に被曝の危険性について問題を提起すべきであると考える。これは私たち物理を専門とする者の社会に対する一つの責任の果たし方であると私は思う2)。特に放射線被曝の影響を解明していく上での、物理学者と医学者・医師との協力・連携を訴えたい。
    観測結果
     筑波の気象研究所の足立光司氏らによれば、2011年3月15日までの間で2ないし2.6μmの直径を持つ球形の微粒子が観測され、その中にはセシウムをはじめ様々な元素が含まれ一様に分布していた3)。これは粒子形成後、高温の状態にとどまり焼きなまされたと考えられる。水には不溶性で、大部分はミクロン以下の微粒子であった。3月16日以降のものは水溶性であった。これは主に硫酸塩コロイドにセシウムなど放射性元素が付着したものである。これら微粒子の生成の機構と事故の経過との関連は重要な物理学のテーマである3)。プラント工学、化学、生物学、気象学、海洋学、土壌学、農学などと物理学との共同作業が必要であると思う。
    微粒子の体内での振る舞い
     酸化プルトニウムのホットパーティクルの危険性についてはタンプリン・コクランの115,000倍危険とする指摘がよく知られている。それ以前の1969年にすでに我が国原子力委員会が的確な報告をしている4)。大きい粒子は鼻腔に、小さくなるにつれて気管支、肺胞に沈着し、さらにサブミクロンからナノサイズに近づくと血管壁や細胞壁を通りぬけて血管、リンパ系を通じて全身に移動することが指摘されている。このような粒子の大きさによる気管支・肺胞への沈着の問題は薬学でも、アスベスト被害などの内科学でも研究され微粒子の体内での挙動が明らかになっている。
     一方、イラク戦争などで劣化ウラン弾の使用とその被害が問題とされてきた。2006年に広島で開かれた国際会議でロザリー・バーテルさんは100ナノサイズ以下の放射性微粒子は血液を介して体内をガスのように自由に動くとして、大きい粒子と異なる危険性を強調した。ナノサイズの粒子は脳にも子宮にも入るのである。
     このように福島原発から放出される放射性微粒子はホットパーティクルとして両方の危険性を持ち厳しく警戒すべきである。プルトニウムはα線を放出するがセシウムやストロンチウムはβ線を放出する。これらの微粒子は体内では局所的・集中的な被曝をもたらし、自然の放射性元素カリウム40に比べて格段に危険である。なぜならカリウムはカリウムチャネルを通じて原子として体内に一様に分布するからである5)
    放射性微粒子の危険性
     放射性微粒子は気管支・肺胞に沈着して肺がんや白血病、リンパ腫を引き起こす直接的な作用と共に、活性酸素・フリーラジカルを発生し、その作用で細胞膜やミトコンドリアの破壊を通じて間接的に生体に被害を及ぼすことが知られている。微粒子に依る被曝の危険性は個々の原子による被曝とは異なり、局所的・集中的な被曝が継続することである。ミクロン単位の微粒子には億単位の放射性原子を含んでいるからである。そして、体内の臓器に長く留まる。
    放射線によって発生したフリーラジカルの危険性
     放射線によるイオン化作用によって活性酸素・フリーラジカルが発生する。もともと生体はこのような活性酸素を用いて病原菌を殺し、生体を守ってきた。しかし、過剰な活性酸素は生体にとって有害である。放射線によって発生する、作用が強力なヒドロキシラジカル・OHは体内に解毒する酵素がなく特に危険である5)。放射性微粒子によって発生したフリーラジカルは細胞膜脂質などを連鎖的に破壊する。ペトカウ効果と呼ばれ低線量での長期被曝によって、心臓など心血管系を含む広範な病気が引き起こされるようである。
    東京圏における様々な病気の増加
     福島における心筋梗塞や突然死が異常に高いことの指摘に留まらず、東京圏にも病気の増加が見られる。例えば血液がん患者数の増加を「院内がん登録」を用いて確認できる1)。物流の中心である東京は、他の県に比べ高い残留放射線量を示している。我が国のがん患者数は諸外国で減少しているにもかかわらず、増加している。2010年と2012年では血液がんは全国で14.3%増加している。しかし、東京は21.1%増であり6.8%高い増加率である。「院内がん登録」統計は、東京の全がんについて、事故前の2010 年から2012 年までの2 年間に、患者数が5 2,090 人から58,662人(調査病院により補正)へと12.6%増加したことを示している。全国では調査病院数の補正値544,067 人から590,856 人へと8.6%の増加であり、東京がやはり4%高い。
     同じような傾向は順天堂大附属病院の血液内科の各疾患の患者数6)や首都圏の4病院、NTT東日本関東病院、千葉大学医学部付属病院、武蔵野赤十字病院、東京逓信病院における骨髄異形成症候群による入院患者数の増加にも見られる1)
    おわりに
     福島原発からナノからミクロンサイズの多様な微粒子が放出された。その結果、ホットパーティクルとしての内部被曝の危険が、今回さらにセシウム、ストロンチウムなどの元素でも生じることがわかった。福島だけでなく、東京圏における放射性物質による汚染の現状に対応して、すでに在京の一部病院で放射性微粒子による被曝に起因する疾患とされる血液系疾患や白内障の増加が見られ、詳しい調査が必要である。
     物理学会員の皆さんには放射性微粒子の物理とその危険性について周りの医学者・工学者など異分野の人と総合的な検討をしていただくことを訴える。
    参考文献
    1)詳しくは yahoo.boxのURL http://yahoo.jp/box/dzEJilを参照
    2)山田耕作:日本物理学会誌:2014年⒌月号、69、335ページ
    3)KoujAdachi:http://www.nature.com/srep/2013/130830/srep02554/full/srep02554.html
    4)http://www.aec.go.jp/jicst/NC/about/ugoki/geppou/V14/N12/196901V14N12.html 
    5)落合栄一郎『放射能と人体 』講談社(2014年)
    6)順天堂大学医学部附属順天堂医院 血液内科
    http://www.juntendo.ac.jp/hospital/clinic/ketsuekinaika/kanja03.html




    参考資料3 
    参考資料2の掲載拒否までの経緯

      編集委員長回答 2月26日

    山田耕作様
     再投稿ありがとうございました。前回は、字数制限による門前払い的な対応になり申し訳ありません。指摘されている点は物理学者と医学者・医師との協力・連携の提言と理解しました。
     会員の声は内容に関しては著者の責任で、閲読的なことは行わないとしていますが、学会誌への掲載の妥当性に関しては編集委員会で検討、決定しています。今回の記事は、「ホットパーティクル」や「東京での院内がん登録と福島事故の関連」など、必ずしも確定していない事実に関して論理の展開があり、編集委員会では主張されている内容の論理的関係が読み取れない(たとえば、がん増加と福島事故の因果関係を主張しようとしているのかどうか、など。)との議論となりました。このような論理の展開は、会員の声の範疇を超えていると判断しました。また、上記の議論はすでにブログなどでも発表されているものであり、その周知活動と見なされる要素もあります。
     これらの観点が議論され、編集委員会において本記事の掲載を差し控えるとの結論になりました。もし、事実関係の論理の展開をされる場合、論理を整理し、専門誌に投稿を勧めます。
    日本物理学会誌編集委員長
    宮下精二

      著者の回答 2015年3月2日

    会誌編集委員会のみなさんへ
    編集委員会に、誤解に基づく掲載拒否の撤回を要求します
    2015 年3 月2 日 山田耕作

    掲載拒否の撤回要求と質問

     2月26日に編集長から掲載拒否の回答を受け取りました。しかし、回答を全く理解できません。以下に述べますように編集委員会の全くの誤解に基づく決定であり、掲載拒否を撤回されるよう要求します。そうでない場合は私の疑問①〜④に納得のいく回答をください。
    編集委員会の決定 念のため編集長の回答を記します。
    山田耕作様
    再投稿ありがとうございました。…上述2月26日付編集委員会回答。…。
    日本物理学会誌編集委員長
    宮下精二

    決定に対する反論と質問
     以下に私の反論と質問を述べます。
    1.拒否理由「論理の展開が会員の声の範疇を超える」とは?
     会誌の投稿規定では
    1) 広く会員にとって関心があると思われる話題についての個人的な意見や感想を述べた投書を掲載する.
    2) 採否は編集委員会での議論を踏まえ,委員長が判断する.その内容に関する責任は投稿者が負う.
    となっており、被曝の危険性について注意を促すことは物理学者の責任としても重要な投書であると思います。2)は個人の責任の範囲を超える間違いなどに適用するものと思います。今回の理由「論理の展開は、会員の声の範疇を超えている」かどうかまで判断するのは越権です。なぜなら、会員の声の範疇が定義されていませんが1)から、「個人的な感想や意見」の範疇であるはずです。この際論理の展開の仕方は投稿者の裁量の範囲内であると思います。個人の感想や意見を述べるのに、投稿者が最も適切な論理の運び方を選ぶ自由はあるでしょう。相応しくなければ編集長がアドバイスすべきですが、いきなり掲載拒否は異常です。
    ①「会員の声の範疇は何ですか」、②「論理の展開が会員の声の範疇を超える」とはどういう意味ですか。
    2.予防原則の無理解による誤解
     編集委員長の回答は私の投稿の主旨を正しく理解していません。私は「初めに」の終わりで投稿の主旨を」次のように述べています。
     「予防原則からしても、会員諸氏に被曝の危険性について問題を提起すべきであると考える。これは私たち物理を専門とする者の社会に対する一つの責任の果たし方であると私は思う2)。特に放射線被曝の影響を解明していく上での、物理学者と医学者・医師との協力・連携を訴えたい。」
     予防原則とは「ある行為が人間の健康あるいは環境への脅威を引き起こす恐れがあるときには、たとえ原因と結果の因果関係が科学的に十分立証されていなくても、予防的措置(precautionary measures)が取られなくてはならない」というもので国際的な合意となっている原則です。
     その観点、つまり、危険性の回避の観点から、ホットパーティクルが福島原発から放出されたという重要な事実とその危険性に関する定説を紹介しました。それに関連する病気が福島だけでなく、東京など広く増大している事実を紹介しました。これらは重要な事実と考えるが故に、詳しい調査と検討のために物理学者と医者・医学者の連携を訴えたのです。
     ところが編集長は
    「今回の記事は、「ホットパーティクル」や「東京での院内がん登録と福島事故の関連」など、必ずしも確定していない事実に関して論理の展開があり、編集委員会では主張されている内容の論理的関係が読み取れない(たとえば、がん増加と福島事故の因果関係を主張しようとしているのかどうか、など。)との議論となりました。このような論理の展開は、会員の声の範疇を超えていると判断しました。」
    と述べています。投稿の主旨で述べた「予防原則」で因果関係に関する議論は明白です。私は因果関係そのものを問題にしているわけでなく、投稿の目的は予防原則に基づく被害の防止です。そのためのホットパーティクルに対する警告であり、問題提起であることは編集長が「医者と物理学者の連携」を理解され、その直前の文章ですから当然理解されているはずです。私が予防原則を主張していることは因果関係より被害の回避と救済の必要を主張していることは明らかです。引用している文献2も「物理学者の社会的責任と原発事故の研究」の会誌での積極的議論を訴えたものです。私は因果関係を論じて学術論文を書くために投稿しているわけではありません。それが明らかなのに「専門誌に投稿を薦めます」とは投稿の主旨をゆがめ,自らまじめに投稿文や予防原則を検討もせず、編集委員長は「会員の声」に掲載するための努力を放棄しているようにさえ感じました。「因果関係を主張しているのかどうか」編集委員会で議論されたということですが私が予防原則に基づいて議論していることは明らかであり、因果関係を主題にしていないことは明白です。
    3.私の投稿は論理の展開ではなく、ホットパーティクルに関する事実の報告
     私は病気の増大の事実を上げ、(因果関係の議論ではなく)より詳しい調査を訴えています。それは明白だと思います。それゆえ、「論理の展開が会員の声の範疇を超える」という意味が全く分かりません。なぜなら、私は学説や事実の紹介にとどめ、さらに調査が必要とし、因果関係はもとより、ほとんど論理を展開していないからです。賢明な会員諸氏は私の示した諸事実から自ら総合的に判断されるものだと思うからです。何よりもまず、放射性微粒子の放出などの事実が会員諸氏に周知され、警告がなされるということが重要です。
    4.物理学者は被害の低減に努力を
     わたしの文章は次のようになって終わっています。「福島だけでなく、東京圏における放射性物質による汚染の現状に対応して、すでに在京の一部病院で放射性微粒子による被曝に起因する疾患とされる血液系疾患や白内障の増加が見られ、詳しい調査が必要である。物理学会員の皆さんには放射性微粒子の物理とその危険性について周りの医学者・工学者など異分野の人と総合的な検討をしていただくことを訴える。」
     以上を見て分かるように私は因果関係の論証については重視していません。むしろそのための一層広範な調査の必要を訴えるものです。これは予防原則からしても必要なことです。予防原則は因果関係が証明されるまで待つのではなく「慎重なる回避」を原則としています。私はその観点から事実の提示に努めました。
     私は前書きに「予防原則からしても、会員諸氏に被曝の危険性について問題を提起すべきであると考える。これは私たち物理を専門とする者の社会に対する一つの責任の果たし方であると私は思う2)。特に放射線被曝の影響を解明していく上での、物理学者と医学者・医師との協力・連携を訴えたい。」と書いており、因果関係より被害への警告と救済にあることは明らかです。私が「問題提起」であると述べていることをあえて「因果関係」にまで編集委員会は勝手に拡げ、掲載できないとしているのです。編集長も自分で問題を因果関係まで広め、「会員の声の範疇を超える」としているのです。私にとってはとんでもない濡れ衣です。ただし、念のために言いますが、編集委員会とは異なり、私は意見として一般に因果関係を議論することが「会員の声」の範疇を超えるとは思いません。
     これらの予防原則に基づく作業は放射線被曝の被害をできるだけ早く発見し、警告し、被害を可能な限り小さくするという我々物理学者の現在および未来の人類に対する責任であると私は考えており、その意見を述べるための投稿です。物理学会員への意見の提示が投稿の主旨であることは明らかなのに専門誌への投稿を薦めるなど誤解も甚だしいものです。
    5.なぜ修正でなく、いきなり掲載拒否なのか
     万一もし「論理の展開が範疇を超える」としても、修正を促すのが常識的な判断ではないでしょうか。私の投稿の主旨が因果関係の証明にあるような理解はとんでもない誤解です。苦労して投稿しているのも物理学者として原発事故に責任があると私は思うからです。これは個人個人によって異なることでしょうから、私は一人の会員として意見を投稿しているのです。③編集委員会のように常に閲読を持ち出し、会員の自由な意見を封じるのは多様な会員の意見交換と相互討論の場としての「会員の声」を死滅させることになりませんか。編集委員会はむしろ積極的に会員間の議論を活性化すべきではないですか。「掲載の妥当性を検討する」ことは「閲読的なこと」ではないのですか。
    6.なぜ編集委員会は誤読したのか
     優秀な編集委員たちが私の投稿文をなぜ誤読したのか。それは物理学者の社会的責任という人道的な観点と「会員の声」にまで学術的な形式を機械的に適用する編集委員会の姿勢との違いが原因ではないかと思います。「事実の公表」より「論理の展開」を問題にしたり、「人間の救済」より「閲読」や「範疇」を優先する姿勢が誤読を生むのではないでしょうか。普通の市民は編集委員会のような「因果関係を議論しているのかどうか」などとは議論をしませんし、誤解もしません。予防原則の立場、すなわち、被害から子供やすべての人を守るという視点が最優先です。
    7.ホットパーティクルの放出の危険性は広く警告すべき重要問題
     編集長の理解のように、物理学者と医者との協力を提言するためには一般的な内部被曝研のブログでは不十分で会誌で物理学者に周知し、直接訴えることが必要です。④なぜ物理学会員への「周知活動」が掲載拒否の理由になるのですか。市民と科学者の内部被曝問題研究会のブログは内部被曝をめぐる限定された有志による検討会です。私にとっては医者と物理学者の共同研究の実践例を物理学会員に示すもので貴重ですが、主に市民との意見交換の場です。それ故、物理学者全員を対象とする本投稿とは訴えの内容や規模も異なります。特に今回は放射性微粒子の放出問題の重要性を物理学者に知らせ、危険性の解明に協力をお願いしたいと思います。
    8.質問項目を再掲します。
    ①「会員の声」の範疇は何ですか
    ②「論理の展開が会員の声の範疇を超える」とはどういう意味ですか。
    ③ 編集委員会のように常に閲読を持ち出し、会員の自由な意見を封じるのは多様な会員の意見交換と相互討論の場としての「会員の声」を死滅させることになりませんか。編集委員会はむしろ積極的に会員間の議論を活性化すべきではないですか。「掲載の妥当性を検討する」ことは「閲読的なこと」ではないのですか。
    ④ なぜ物理学会員への「周知活動」が掲載拒否の理由になるのですか。

      会誌編集委員長回答 2015年3月28 日

    2015 年3 月28 日
    山田耕作様
     ご連絡ありがとうございました。ご質問に関する編集委員会の考えをお知らせします。
     まず、「会員の声」欄の文責は投稿者にあるため、比較的軽微な改訂をお願いする場合を除き、委員会は強い改訂意見を述べないこととしていることをご了承ください。
     前回の回答に書きましたように、指摘されている主旨は物理学者と医学者・医師との協力・連携の提言と理解しました。その主旨の掲載に大きな問題はないと思いますが、現原稿を掲載不可と判断した理由として以下の点があります。
     回答の『「ホットパーティクル」や「東京での院内がん登録と福島事故の関連」など、必ずしも確定していない事実に関して論理の展開があり、編集委員会では主張されている内容の論理的関係が読み取れない』の部分については、たとえば、がん増加と福島事故の因果関係を主張しようとしているのかどうか、などが理解しにくいためこのように表現しました。つまり、東京での院内がん登録の増加を福島から拡散してきたホットパーティクルに関連づけるかどうかについて、文面では陽には関係が述べられていませんが、文脈からすると明らかに関係づけていると考えられます。たとえ先生の立脚される「予防原則」が因果関係の立証を必要としないものであったとしても、読者のとらえ方によっては風評や風説の流布にもつながりかねない記述のある場合、編集権の範囲として掲載に慎重な姿勢をとっています。それらの関連を科学的に議論することは「会員の声」欄の役割ではなく、より専門的な議論をしっかりと展開できるところですべきであると考え、そのことを「論理の展開が会員の声の範疇を超える」と回答しました。また、ホットパーティクルに関しても、否定的な見解もあるようで物理的根拠が十分なコンセプトではないと判断しています。「会員の声」欄において専門家による閲読を経ないままこの議論を主張することは、読者に無用の誤解を与える恐れがあり、編集委員会としてお知らせいたしましたような判断となりました。これらの判断は「閲読的」と捉えられなくもありませんが、記事中に描かれた事柄や用語に一定の客観性や合理性を求めることは、公的性格の強い物理学会の会誌編集委員会の責務の一つであり、そのための裁量の範囲内であると考えています。この点に関して「会員の声は内容に関しては著者の責任で、閲読的なことは行わないとしていますが、学会誌への掲載の妥当性に関しては編集委員会で検討、決定しています。」と回答させていただきました。
     「周知活動」に関しては判断が難しいところです。編集委員会が各投稿に強い改訂意見を述べない「会員の声」欄では、個々人の研究成果から全く合理性を欠いた物理の新理論の宣伝、あるいは物理と全く関係のない内容の勧誘など、さまざまな周知活動が形式上は可能となります。これら幅広いスペクトルの周知活動による不測の事態を避けるため、掲載可否判断にあたっては一律に抑制的な対応をとっています。(限られた時間の中での編集活動であることをご理解ください)
     繰り返しになりますが、指摘されている主旨は物理学者と医学者・医師との協力・連携の提言と理解しており、その主旨に強い異論はありません。編集方針をご理解の上、改訂再投稿していただくことを拒絶するものではありません。(4月以降の編集についての事務連絡、略)
    日本物理学会誌編集委員長
    宮下精二

      T氏のコメント
     私と編集委員会のやり取りを読んだT氏より、次の感想が寄せられた。
     「改めて驚きました。『論理の展開が会員の声の範疇を超える』に加えて『読者のとらえ方によっては風評や風説の流布にもつながりかねない』などと言われると``物理学会一般会員は読解力なき馬鹿者共だ” と 見下されているような感を抱かざるを得ません。
     また山田さんの投稿内容が『個々人の研究成果から全く合理性を欠いた物理の新理論の宣伝、あるいは物理と全く関係のない内容の勧誘など、さまざまな周知活動』の一種と見なされたとすれば これは甚だしい言いがかりだと思います。」




    追記1 弱いものを締め出す社会は弱くてもろい社会である

     最後に本題から離れるが、人権と民主主義に関する障がい者、老人など社会的弱者と社会の関係について付け加えたい。以下の文章は人権、民主主義がすべての人間にとって何よりも大切であることを示す経験や言葉であると思う。

    ・私は定年退職の最終講義の前日、たまたま『楽団あぶあぶあ』の演奏を聴いた。ダウン症や知的障害の人たちを演奏メンバーとする楽団である。京都コンサートホールいっぱいに集まった同じような聴衆が、演奏がはじまると、歓喜で飛びあがり、駆け回り、感動を表すのである。会場いっぱいの騒がしさである。私の前の席の多動症の子供も騒ぎ走り回るので、その子のお母さんは追いかけ、他の人に謝るのに大変であった。私はいつもおとなしいダウン症の子供たちの、このような生き生きとした表情と爆発的なエネルギーをはじめて知った。「一人の進歩がみんなの喜びに」がこの楽団のモットーであった。多動症の子どもの母親が謝らなくてよい社会に、子供がそのまま受け入れられる社会にしていこう。



    ・「弱いものを締め出す社会は弱くてもろい社会である。みんな仲間なのです。わたしが歩まなければならなかった、この最も悲しみに満ちた行路を歩む間に、私は人の心は全て尊敬に値すると知ったのであります。全ての人は人間として平等であり、そして万人はみな人間としての権利を持っていると教えてくれたのは、ほかならぬ私の娘でありました。…もし私がこれを理解する機会に恵まれなかったとすれば、私は自分より能力のない人に我慢できないあの傲慢な態度を持ち続けていたに違いありません。娘は私に人間とはなんであるかを教えてくれたのであります。」(パールバックさん、知恵おくれの子の母親)

    ・「被害者の苦しみや悲しみを共にしようとしない人々に伝えようとするとき、伝えようとする『環境汚染をなくし、それを生み出す社会を変えていこう』という考え方は『環境汚染によってもたらされる障害や病気は恐ろしいものだから、それを無くしていこう』という風に受け取られることが多い。なぜなら共に生きる、苦しむという視点がない限り、評価のみが一人歩きし、そのイメージのみが伝わることになるからである。」(真野京子、少人数ゼミパンフ1999年)

    ・朝日新聞(2005年5月12日)の投書欄に載った45歳の母親の言葉。
     「『普通じゃないのよ』その声に、熊手を持つ手を止めて数メートル先を見た。潮干狩りに興じている幼児2人を連れた若いお母さんの口から出た言葉だとわかると、振り向いて娘を見た。先月中学生になった娘には、重い知的障害がある。思春期のシンボルも現れ始めたその顔や手は、泥で汚れていた。そうか、子供から『あの人、大きいのに泥まみれで遊んでいるよ』 と質問され、それに答えたのだろう。母親もどう説明したらよいのかわからなかったのだろう。けれど、『普通じゃない』 という言葉は、幼い子供達をぴしやりと黙らせるのには効果があった。休日で天気もよく、おまけに大潮だったので、かなりの人で、にぎわったが、たくさんのアサリを持って帰ることができた。潮をふくアサリは、どれも同じものはない。色も模様も千差万別だ。まるで、他と違って当たり前と自己主張しているようだ。『普通』、『普通じゃない』 と分けられない社会になれば、その時がくれば私も娘を残す不安もなく死ねるかもしれないと思った。」

    ・2015年6月27日に開かれた大飯原発差し止め訴訟原告団総会で福島からの避難者を代表して、鈴木絹江さんは、原発からの避難が障がい者にとって如何に過酷なものであるかを自らの体験をもとに話された。障がい者は事故で真っ先に死ぬ、炭鉱におけるカナリアのようなものだと言われた。社会的な弱者を含めて共生する民主的社会においては、障がい者にとって、その生命と健康を破壊する緊急避難を必要とする原発は避難体制の問題以前に、本来人権と相容れないものであり、存在すべきでないのである。


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    • 2016/06/01 3:48 PM